歴史(History)
向岸寺の由来
僧英仲が1429年この地に天台宗の寺院西福寺を建立し、後臨済宗寺院とした。 毛利元就に従い石山合戦に参加した齋藤源太景利は顕如上人の弟子となり、真宗に帰依して賀傳と号し、帰国して天正年中(1573~1593年)無住となっていた西福寺を再興し真宗寺院とした。萬治元(1658)年木仏御免並びに向岸寺号を御免され西福寺を向岸寺と改めた。
長門市日置古市 西光寺との関係
向岸寺の末寺であった豊浦郡神田村西光寺は、明治5年5月廃仏毀釈の際大津郡日置庄古市の淨圓寺及び大津郡西深川村安養寺と合併して一旦光安寺となった。その後安養寺は復興して独立し光安寺は西光寺と改め現在に至る。
弥生時代からの歴史
向津具地区は本郷盆地を中心に古墳などが分布しており、王屋敷遺跡では弥生時代中期の有柄細形銅剣(ゆうへいほそがたどうけん・国指定重要文化財)も出土しています。この有柄細形銅剣は明治時代、台風の時に崖が崩れ、五輪塔の下から出土したもので、刀身から柄まで鋳られているものは珍しく全国でも4か所しか見つかっていません。
今回の発掘調査では、県内最古級の稲作の痕跡となる弥生時代前半の灌漑用と思われる溝やこれに伴う石包丁が見つかったほか、鎌倉・室町時代の集落が発見され、縄文時代から鎌倉・室町時代にかけての幅広い時期の遺物が出土しています。
調査結果からこの地域では弥生時代前期前半の段階で、縄文系の食生活であるどんぐり食や漁業を行っていたこと、初期稲作文化の東進ルート上の拠点的な集落であったこと、石器石材入手等のための広範な交流を行っていたこと、中世においては向津奥庄の中心的な場所であった可能性があることが判明しました。
戦前戦後の風物詩
1934(昭和9)年8月26日、日本帝国海軍連合艦隊68隻が長門市の油谷湾に入港したときのものです。旗艦は金剛で空母加賀か赤城も見えます。
花山信勝氏を迎えた時と思われます。